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今週のレコメンKYOTO!西寺跡公園

Kyoto Weekly

2018.11.26

 京都のシンボルといえば、京都タワーが建てられるまでは東寺だったのではないでしょうか。いまだアクセントに悩む東寺。「当時」「杜氏」「陶磁」「冬至」「湯治」どの「とうじ」が一番近いでしょうか。ところで、東寺があるのにどうして西寺はないんでしょうか。ご存知の方も多いと思いますが、かつては「西寺」もありました。平安京の遷都に伴い、国家を守るお寺として、「東寺」とともに建立されています。現在は唐橋西寺公園に「西寺跡」が残されているのみなんですが、先日、その「西寺跡」について、中心建物の「講堂」跡で、京都市文化財保護課が初の発掘調査を行ったところ、建物の基壇や階段の痕跡が見つかりました。講堂の位置は 従来の説とは異なり、1キロ東に位置する「東寺」の講堂と「一直線上」に並んでいることがわかりました。1キロも離れている東寺と西寺の「講堂」同士が、一直線上に並んでいるって、これはかなりグレートですよね。今回の調査によって、東寺と西寺、それぞれの中心的建物である「講堂」が、朱雀大路をはさんで、「左右対称」に正確に配置されていた可能性が高まりました。平安京が精密な測量技術のもとに造営されたことがうかがえます。
ちなみに・・
東寺は現存していますが、どうして西寺は消えてしまったのでしょうか。東寺は嵯峨天皇の時代、真言宗の開祖「空海」に与えられ、西寺は「守敏」という僧侶に任されました。二人はライバル関係で、僧侶の位でいいますと、「守敏」のほうが「空海」よりも高かったそうです。ある年、ひどい干ばつになり、天皇は二人に雨乞いの儀式を命じました。舞台は現在、二条城の南側にある「神泉苑」。まず「守敏」が祈りますが、雨が一滴も落ちてきません。そこで交代した空海が雨乞いをすると、雨は三日三晩降り続き、全国の田畑が潤ったといいます。雨乞い合戦に敗れた「守敏」は羅城門の近くで待ち伏せをして、空海に向けて矢を放ちました。ところが突然、現れたお地蔵様が身代わりになって矢を受け、空海は難を逃れました。結果として、勝った空海の東寺が栄えるいっぽう、信用をなくした守敏の西寺は衰退の道を辿ることになったとされていますが、これはあくまで「言い伝え」。雨乞いの儀式は824年に行われたそうですが、これは 空海と守敏が東寺、西寺に入った翌年のことなので、時期としては少し早すぎます。実際のところ、「西寺」は990年に大部分が焼失しまして、その後も再建と焼失を繰り返し、1233年の焼失以降はついに再建されませんでした。いっぽうの東寺も一時期、荒れ果て、火災にも見舞われるんですが、そのたびに、源頼朝や足利尊氏、豊臣秀吉といった時の権力者のを受けて再興しました。東寺が真言宗の活動の中心だったことも大きかったといわれています。東寺が栄えるいっぽうで、衰退の一途をたどった西寺。「西寺跡」がある唐橋西寺公園は 小さな公園なんですけど、東寺と双璧をなす大きなお寺が実在した頃のことを想像してみるというのも、面白いかもしれません。

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